2014/07/02

アウシュビッツを訪ねて

※多少刺激の強い写真があるかもしれません。苦手な方はお気をつけてください。

6月10日6時40分。 
クラクフ駅から発車する列車に乗り込む。

寝ぼけ眼で窓から望む景色は、
「世界の車窓から」そのままの情景を、睡魔が襲う脳に映す。

まさにその線路の上を、かつて数えきれないほどの罪なき人々が、
絶望の闇に包まれた貨車に乗って運ばれていたことを知るのは、
もう少し先のことである。

列車に揺られることおよそ1時間30分。
今回の旅の最大の目的である、
アウシュビッツ博物館のあるオシフィエンチム駅へと辿り着く。

小学生のころ、沖縄や広島を訪れ、戦争というものを知って以来、
いつかはこの地を訪れてみたいと思っていた。

人間の死を、数で持って比較することは好かないが、
広島や長崎の悲劇をはるかに超える数の人が、
ただその存在を理由に殺された。

その場所を訪れることは、
義務感のようなものと共に、
ある種の興味、興奮を幼心に覚えていたことも、
また事実かもしれない。

ガイドをお願いした中谷さんと合流し、
いよいよ見学の始まりである。


天気は晴れ。
清々しいほどに青い空と、印象派の描くような雲。
これらが悲劇の地と作るコントラストが、
軽く汗ばむような気温とともに、
収容所を冷たく照らしだす。
無邪気な小鳥のさえずりすらも、
まるで残酷な皮肉を歌うように聞こえる。





まず出迎えたのは、
”ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)”の一文が刻まれた門。
Bの文字が逆さなのは、
単にデザインの問題との説が最近では有力らしい。





高圧の電流が流された鉄条網は、脱走を防ぐためだけでなく、
男女の収容施設を分ける役割も果たした。
“下等種族”の”断種”を試みた、当時の政権の意図が垣間見える。




まだ朝早い時間帯にもかかわらず、
敷地内には老若男女、多くの観光客が、
”人類の負の歴史”を自らの目で見るために、訪れている。

中には、旧約聖書を片手に見学をする少年少女の姿もある。
彼らはユダヤ人であり、
先祖の直面した”悲劇”の跡を辿りに来ているらしい。
民族という繋がりがもたらす当事者性は、
彼らの心に、この景色をどう写すのだろうか。




敷地内は、かつて収容所として使われていた建物の中の幾つかが、
博物館として公開されている。
収容所の写真、全体の模型、残された物などを巡りながら、
当時の状況を、少しずつ紐解いていく。

忘れてはいけないのは、ユダヤ人以外にも、
ロマ(ジプシー)、ソ連軍の捕虜、
その他少数民族、同性愛者、障害者なども、
ここに連れて来られたという事実である。



収容所での生活は、
”悲惨”と言った言葉で突き放しては、いけないものであるように思える。
まず、収容所に列車で運ばれてきた人々は、
身ぐるみをすべて、更には体の一部まで、剥がされる。
カバン、服、靴、義手や義足、髪の毛、老いも若きも意に関せず。


そうして得られたものは、書類上で、モノとして処理される。
誰のものだったかは関係ない。
中央の上層部には、報告書と物品がただただ送られてくる。



後で返せるようにと、カバンには名前を書かせた。
当然、この名前の主のもとに、
これらのカバンが戻ることはなかった。

小さな服や靴が、幼い命をも奪われていたことを示す。




ある建物から、泣き叫びながら少女が飛び出してきた。
収容所の生活の様子を展示した建物だ。
何が彼女の感情を爆発させたのかはわからないが、
彼女の想像の許容量を超えた狂気が、
ここに存在していたということだろう。


身ぐるみを剥がされた後、
人々は、労働が可能かどうかを判断される。
働ける者は、働き続けることのギリギリの環境で労働を強いられる。
一方、働けない者は、ガス室へ送られる。



シャワーを浴びると言われて運ばれたのは、有名な話だ。
詰め込まれた人々の上から、チクロンBが投げ込まれる。
発生したガスが、人々の息を奪う。
魂の抜けた体は、隣の焼却炉で燃やされる。





かつて数えきれない数の命を奪ったその部屋は、
汗ばむほどの陽気だった外の世界とは、違う空気が流れている。
寒気すら感じる、張り詰めた空間の中で、
手向けられた花束だけが、鮮やかに浮かび上がる。


すぐさまガス室に運ばれなかった者も、
過酷な環境下で労働を強いられ、
2〜3ヶ月お迎えが伸びただけである。
“生かさず殺さず”とは、江戸時代の日本の話であったか。
どうやらここでは、そんな考えは浮かばなかったようである。




憎らしいほどに秀逸なのは、
反乱が起きにくいように、被収容者の中で序列を作ったことである。
(収容する側にとって)模範的である被収容者に、
少し優遇した待遇を与える代わりに、
他の被収容者の監督を任せたりすることで、収容所内の秩序を保ったのだ。
上に上がるインセンティブを与えるとともに、
下に下を作ることで不満を減らす。


それでも歯向かうもの、逃げ出そうとするものはいる。
しかし、そんなものは撃ち殺してしまうまでだ。




通称、”死の壁”。
数々の”反逆者”が銃弾に倒れた場所。
この地を訪れたユダヤ人が積み上げた小石は、
弔いの意を示すらしい。



ひと通り見学を終えた後は、
バスで第二収容所であったビルケナウへ向かう。
“絶滅収容所”とも称されるその施設は、
証拠隠滅のために壊されたり、戦後連合軍が破壊したりして、
現在ではほとんど建物が残っていない。
ただその広さばかりを際立たせるばかりである。







かつて存在した収容施設は、
そのほとんどが急増で建てられたものであったが、
元々馬小屋として使用されていた建物もあったという。

ここに運ばれてきた人々にとっては、
かつての住人であった馬くらいの扱いですら、
マシであったかもしれない。







“どうしてこんなひどいことを”


そんな疑問が浮かぶのは必然であろう。



“二度とこんなことを起こしてはならない”


そう誓いたくなるのも当然であろう。



しかし、人類はまた同じ過ちを繰り返すかもしれない。
全ては細分化されたシステムのもと、
緻密に、着実に、粛々と、全体像を上手く隠しながら行われた。

例えば、ガス室の死体を燃やす役目は、
収容された人々の役目であった。
収容者側は、直接自らの手を汚す事無く、
被収容者を精神的、肉体的に追い詰めることで、
統制し、管理し、抑圧した。

戦争という大きなシステムのもと、
収容者側は、役割を分担し、
官僚的にその職務を全うするだけでよかった。

医者は医者の役割を、建築家は建築家の役割を。
そうすることで、
ゲーム画面の向こう側では、勝手に人が死んでいくのだ。


言葉は人を盲目にし、価値観を変える道具として使われる。


今の時代だってそれは変わっていないはずだ。



不景気のはけ口を、移民や隣国の国民に求める姿や、
右翼政党が力を獲得していく様子は、
人類史上最大の戦争前夜を彷彿とさせる、と、
ガイドの中谷さんは語る。



人間は、同じ人間に勝手にレッテルを貼り、線を引き、差別する。
残酷で見るに堪えない現実は、大きなシステムのもと、
細分化することで覆い隠される。

関わる人が増え、作業が分担されることで、
全体が見えないまま、
搾取の上で生産された商品は世に出回り、
我々はそれを消費する。



想像する力を、真実を見る勇気を。
“悲劇”を”悲劇”として見るのは簡単だ。
しかしこれは決して劇やミュージカルではない。
現実に起こった出来事であり、
これからも起こる可能性のある、人間の弱さの結晶である。

6月の太陽は眩しく、
僕らを、過去を、未来を照らす。